2016年1月9日土曜日

言語の見る夢

年始にウィトゲンシュタインの論理哲学論考を買って読んだことで、いろおんなことを思い出している。
もともと川上未映子さんの本から永井均さんの本を読み、そこから今度はウィトゲンシュタインだ、と思っていた日があり年末まで忘れてたんだけど、知人と話したことで思い出し、読んだ。論理哲学論考。
内容は難しくって、もともと論理的思考が破綻しているとよく言われる私には正反対な本だなとか思いながら読み、きちんと読めばきっといろいろ理解できるであろうとは思うんだけどでもすぐに理解できない自分の頭に自己嫌悪したりしながら、読み進めていくとすっと入っていくる一文があったりして、読んだ後に『世界は言語の見せる夢、全部まぼろし』という言葉が浮かんだ。待って、でもこれは私の内部で発生した言葉だけどもなんか聞いたことあるなんだっけ。と思ってグーグルで検索したらウィトゲンシュタインが別の本、哲学探究で書いた言葉みたい。私たちの言語が見る夢だって。うわあと興奮して、でもなんか違うんだよな多分未映子さんだと、永井さんとの対談が載っている六つの星星を読み返した。論理哲学論考読み終わってから読み直すと対談も以前よりもっと面白く体に入ってくる。カントの純粋理性批判を読もうかな次はと思った。それとあとがき読んでふたたび涙。未映子さん大好きだ。未映子さんの処女作、私率イン歯ー、または世界も読み直して興奮した。だけど浮かんだ言葉の手がかりがなくてなんとなく自分の昔のブログを読み返したらありました。黒田夏子さんと川上未映子さんの早稲田大学での対談で聞いたんだった。ブログに書いてた。強い衝撃だったと書いていた。結ばれました。
全部は言語だ。言葉が夢を見せてる。私は存在しない。言葉が私を作ってる。あの人の私を作ってる。生まれたばかりの赤ちゃんは他人との境界線がわからない。境界線をつくるのは言語だ。お酒で酔っ払うことや薬でらりることや、ジェットコースターに乗ること、たばこを吸うこと、音楽聴くこととか、全部境界をなくす作業のようだ。言葉を消して世界と一体化するような。言葉にできることと言葉にできないことをずっと感じてる。

ブログ読み返してたら思い出したことがいろいろ。
真っ白くて完璧なものになりたいというそんな考えごとに囚われていたけど、最近まで思い出すこともなかった。美しい瞬間を完全密閉して保存して好きな時に完璧に見返すことができたらとか。私はいろんなことを忘れていく。ブログに書いていることは忘れてもなんともないことかもしれないけど、そういったことを忘れてしまうことってなんか怖い。私が強く感じたことも全部流れていってしまう。
うどんやさんで見た夢が面白すぎて日記につけていたおじさん(夢おじさんと勝手に呼んでいた)が何気なくいった、『経験したいろいろなことは、そのまんま誰にも知られずに棺桶なんだから本にしてください』ということにはっとした。帰り道何気なく見た空が美しかったこと、ガラスに反射した光、お母さんとちょっとしたことで喧嘩したこと、ぜんぶ通りすぎた何気ないことは言葉にされていない。だから本が救うんだ。私たちは生きてる。みんなうまいこと言葉にできないけど。私も下手だけど。

家が大変。お母さんが大変。弟の黒いため息。親戚のおじちゃんは超能力が使えるようになったと入院先で言ってるらしい。おじいちゃんは遊びに言っても一言もしゃべらないし。じっと見る黒目が私を吸い込みそう。ベットに置いた私の手の甲にゆっくりじいちゃんは手を乗せる。冷たい手の温度、老人の手。ふやけたように柔らかくて冷たい手。じゃあね、と手を振ると横になったまま手を振るじいちゃん。手だけが動くじいちゃん。
好きなことやものがあんまりない。ころころ変わる自分についていけない時がある。
わっと盛り上がったと思ったら急に冷めたり。人に言いたい事が伝わらない。
意味のない話を振って不快にする。余計なことを言ってしまう。日本語が下手なのは私も病気なんだきっとと思って、私が本を読むのが好きなんて間違ってると思って泣きたくなるけど。やっぱり好きだ。言葉のこともっと知りたい。本をもっとたくさん読みたい。破綻したままでも文章を書きたい。

エマル