坂口恭平さんの家族の哲学読んだあと、弟からやさしいメールが来て、
悲しいしらせも来て、先のことを思ったら気が遠くなりつつ、
人々の日常を想像して心配になりながら、
家族の哲学のことをまた思い出して、
大切にしてきたなんでもない記憶、
匂いや感触や光の当たりかたが高速の走馬灯のように流れて、
死んでいった人たちが確かに生きていた時代があったんだということが頭によぎり
、川上未映子さんの六つの星星あとがきで知ったシェイクスピアのことば、雪は溶けて水になったのはわかる。だか白さは何処へいったのか。というのを思い出した。白さ。
雪があったというしるし。存在したこと。その事実。
花が咲くこと。髪の毛が抜けること。私がなにかを書くこと。
全部のしるしを思うと途方もない気持ちになって、
いろんなものが渦巻いて、
風呂場で感動してんのか悲しいのか嬉しいのかよくわからず泣いた
。壮大な勘違いみたいなこんなこと、私馬鹿みたいだけど、
これだけにつきるんだ本当はと思う。
いつか私の身体は死んでしまって、
細胞たちは全部解散してしまっても、宇宙のちりになっても、
わたしがいたというしるしは変わらない事実なのだ。
不思議だなと思う。どうしてわたしというしるしがあるのか不思議。でもきっとなにもかもただあるんだろう。
意味は言葉がつれてくる。しるしも言葉だ。ただあることに震えるのは、上手く理解できないけど、
身体はわかって涙が出るんだと思う。ただあることを目撃してる。美しさを常に目撃してる。本当は。
身体が分かってることを、
時々言葉が邪魔して見逃してしまうけど、いつだって美しい。
いつだって尊い。わたしたちは何度だって繰り返すけど、
それは一回きり。とんでもないことだなとか思いながらすぐに忘れたり思い出したりそんな感じ。
上手く書けないしまとまってなくてぐしゃぐしゃ。
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